今週「Number WEB」から長谷川健太監督体制を総括する2本の記事が公開された。ライターは佐藤俊氏と下薗昌記氏。両名の記事に共通していたのは、「ガンバらしさ」について言及されていたこと。今回はこの2記事を引用する形で健太監督体制のガンバについて振り返る。
佐藤氏の記事にある一文
形はどうあれ、「たまたま」や「なんとなく」の攻撃はガンバらしくない。
下薗氏の記事にある一文
現実主義者に率いられた大阪の雄は、クラブが本来、目指し続けて来た攻撃サッカーをいつしか失ってしまっていた。
前後の文脈は本記事で確認してもらうとして、「ガンバらしさ=攻撃的サッカー」という前提で書かれていることが共通点。攻撃サッカーが失われていることに対する問題提起が記事の趣旨である。
「ガンバらしさ」という呪縛
健太監督は「ガンバらしさ」から逸脱したサッカーをしている。それが批判のポイントである。ただ振り返れば、就任当初は“ガンバらしさ”など問われていなかったし、守備の立て直し(構築)が最大のミッションだった。当時と今、共通するのは「ないものねだり」。攻撃サッカーは蜜の味。クラブにとって忘れられるものではなかった。今考えれば、長谷川健太監督を招集した時点で数年後のミスマッチは運命づけられていたとさえ思える。
健太監督はこの運命に抗おうとしているようにも見えた。メディアに対して「ガンバらしさとは攻撃サッカー」といった主旨の発言を何度もしており、今シーズン序盤は攻撃的なシステムにも挑戦している。しかし、結果が出なかった。そして貼られた「守備的なチームを作る監督」のレッテル。
一連の健太監督に関する報道を見聞きすると「ラべリング理論」と思い出す。周囲によって決めつけられた当人へのイメージによって扱いが変わり、その影響で本人のアイデンティティも変容し、本当に周囲のイメージ通りの人間になってしまうという理論である。
“ガンバ大阪らしさ”と、自身に貼られたレッテルの狭間で何を考えたのか。最終的には守備を重視するサッカーに原点回帰したチームマネジメントや、繰り返されるサポーターを意識したコメントから苦悩が垣間見えた。そして、思う。健太監督をガンバらしさを失ったスケープゴートにしているのではないか……と。去る人間に原因を押し付けるのは簡単だ。
しかし、それではきっと“ガンバらしさ”は取り戻せない。
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