分断されるサポーター -レアンドロ・ペレイラ選手と昌子源選手の口論を事例に-

メディア寄稿実績

レアンドロ・ペレイラ選手と昌子源選手が試合中に“仲間割れ”をした。

チームメイトの切り替えの遅さに対する昌子選手の苛立ちがきっかけとなったのは間違いない。ただ、昌子選手がどんな言葉を発したのか、ペレイラ選手はなぜあそこまで怒りを示したのか、サポーターからは見えていない部分も多い。

リードされている状況だったので「ロッカーでやってよ」とは思ったが、ポジティブに解釈すれば、味方のパスミスに項垂れるばかりであったペレイラ選手とチームメイトの相互理解が深まるきっかけになる可能性はある。仲良しグループでは勝てない世界で、必要な厳しさと捉えることもできる。

間違いないのは、お互いに譲れない考えがあったということ。両選手は試合後に会話をしたとのことなので、今後の関係については心配していない。

一方で、本事象に対するツイッターの感想を見ていると、サポーター間で生まれたのは相互理解ではなく「分断」であるように感じた。視点や立場が変われば意見も変わる。その前提への尊重がない限り、永遠に相手のことを理解することはできないと思うのだが、SNS上にあったのは“どっち派”かの意思表明ばかり。

「どっちの気持ちも分かるよ。だから……」

そういう意見は今の時代に求められていないのかもしれない。中途半端。分かりにくい。自分の考えがない……etc. “バズる”のは強い意見だ。最近は「論破」という言葉をよく見聞きする。戦う人に支持が集まる世界。ネットで何かを発する時、常に問われている気がする。

「で、お前は味方なの?敵なの?」

次節、ペレイラ選手と昌子選手の勝利の抱擁が見たい

少数派と中間派の生きづらさ

今回のケースは「昌子選手支持」が多数派。そうなると友敵思想が強いプラットフォームにおいて少数派が「けど、ペレイラ選手も……」と擁護する発信はしにくい。ペレイラ派の意見が見えにくい以上、相互理解は進まない。

そもそも二項対立的な議論は問題を単純化してしまう側面がある。同時に、インフルエンサーの存在感が大きすぎるSNSの世界で自分の考えを持ち、発信することの難しさを今回の事象で痛感している。「多数派=正」とは限らないことを時々忘れそうになる。他人の変容に巻き込まれるのは簡単だが、自分を持ち続けることが本当に難しい時代だ。

5月初旬に信頼できる友達との飲み会が続いたのだが、彼ら彼女らとの会話で感じたのは自身の二面性。気を遣う必要のない相手に対して話している自分の考えは、SNSで発信しているものとは違った。そのことに気が付いた時、私もどこかでSNS世論(多数派)に影響を受けていたり、遠慮をしていることを実感した。

個人的な話を少しすると、大学に入学する際に社会学部を選んだのは「広い視点で物事を捉えるようになりたいから」だった。メディアの情報に考えが流されがちだった自分を変えたかった。

漫画「デスノート」を事例に、登場人物である「夜神月(キラ)」派と「L」派に学生を機械的に分けて、双方の立場から正義について半年間かけて議論する……なんて個性的な授業を通じて、違う視点(立場)から想像することを多少は意識できるようになったと思ってる。

しかし、大学で身に付けたそのメンタリティでは今の時代を生きにくい。味方でも、敵でもない立場を取る(習慣がついている)私に味方はいない。

だから、お互いに忖度なしに意見をぶつけ合えるペレイラ選手と昌子選手の姿が実は少し羨ましくもあった。2人の口論のゴールがどちらかの「論破」にはならないことを祈っている。

Photo:おとがみ

Digiprove sealCopyright protected by Digiprove
人気記事紹介

ABOUTこの記事をかいた人

1984年生まれ、大阪府出身。関西学院大学卒業後、スカパーJSAT株式会社入社。コンテンツプロモーションやJリーグオンデマンドアプリの開発・運用等を担当。2020年に筑波大学大学院でスポーツ社会学領域の修士号を取得。現在はスポーツ系出版社のライター&WEBサイト運営。ビジネス関連のテーマを中心に取材・執筆。F1と競馬も好き