試合前、サポーター仲間が言う。
「今日、宇佐美が決める気がする」
そして、当然の顔をしてこう続けるのだ。
「知らんけど」
スタジアムでは“根拠なき”会話が当然のように交わされている。決勝点を決めた選手がヒーローインタビューで「今朝、ゴールを決める夢を見たんです」「家を出る時に子供がパパがゴールを決めると予言してくれて」といった趣旨のコメントを発している姿も見たことがある。そして、そうした発言に違和感を指摘されていた記憶はない。
それは世の中に起きる事象が、必ずしも全て論理的に説明できる訳ではないと理解しているからだろう。私たちは“奇跡”としか言いようがない勝利を経験しているし、非論理的な言葉や出来事が、自らの活力になることを知っている。未知である部分に真理がある。精神安定剤として処方されたものが、実はビタミンCのサプリメントであることを暴いて得をする人がいないのと同様に、非論理的なことを(も)信じるのはJリーグを楽しむ秘訣の1つである。
映画「星の子」を観て
こんなことを考えたのは、EURO視聴を目的に加入したWOWOWで放送されていた映画「星の子」を観たことがきっかけである。
大好きなお父さんとお母さんから愛情たっぷりに育てられたちひろだが、その両親は、病弱だった幼少期のちひろを治した“あやしい宗教”を深く信じていた。中学3年になったちひろは、一目惚れした新任のイケメン先生に、夜の公園で奇妙な儀式をする両親を見られてしまう。そして、彼女の心を大きく揺さぶる事件が起きるー。
オウム真理教の影響もあり、宗教をネガティブに捉えている日本人は多い。この映画でも芦田愛菜演じるちひろと両親は、宗教を信じているがゆえの逆境に立たされる。なぜ彼女達は信仰を続けるのか。
そうした懸念は映画を見続ける中で、宗教があるからこそ強く生きることが出来るちひろ家族の言動を見聞きして、少し捉え方が変わる。生きることの意味付けとして宗教を活用(信仰)している彼女達と、サッカーを拡大解釈して人生訓(答え)としている私には通じるものがあるかもしれない、と。
映画の中で“怪しい水”を飲むちひろに向けられた目線は、会社にゲーフラを持ってきた時に私に向けられた同僚のそれに近い。南無阿弥陀仏を唱えるが如くチャントを口ずさみ、修行のような激狭4列シート夜行バスで東北のスタジアムに向かう。サポーター活動に対して異質性を指摘されたことは1度や2度じゃない。
それでもサポーターを辞めようと思ったことは1度もない。応援(信仰)は人生を前向きに生きる上で必要だから。会社や家庭とは違う生活規範を提供してくれるサッカーの存在は一種の逃げ場でもある。物質的な充実が飽和状態である日本。心の充実がこれまで以上に重要視されつつある社会のトレンドもあり、近い将来、宗教への理解は進むかもしれないと映画を見終わった時に感じた。
論理的であることを真理とする前提に立てば宗教は怪しい。しかし、非論理的なことも信じないと上手く生きていけない。
余談だが、私が応援するガンバ大阪のマスコット「ガンバボーイ」はギリシャ神話に登場する神・ゼウスの生まれ変わった姿がモデルとされている。応援するクラブのシンボルが神という奇跡。きっと私がガンバを応援するのは運命だったに違いない。知らんけど。
Photos:おとがみ
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