ガンバ大阪オフィシャルマガジンで倉田がクルピについてこんなことを語っていた。
とくにかく、決め事が少ない。実際、監督も「A選手がここに動いたら、B選手はここに動け」というような、固定した選出は決めたくないとおっしゃっていて。
クルピのサッカーには細かい戦術が存在しないらしい。選手のイマジネーションに期待する芸術性の高いサッカーを志している。聞こえはいい。しかし、「自由」は諸刃の剣だ。似たようなチームマネジメントだったジーコジャパンが最後まで一体感を持てなかった例に代表されるように、扱いが難しい代物である。
特にガンバ大阪は昨年まで真逆のマネジメントをする指揮官に率いられていたクラブである。同じくガンバ大阪オフィシャルマガジンで山口智コーチが「指示待ちの選手が多い」「自分達がどうしたらいいのか発信できない」と選手に対して苦言を呈していたが、自由に慣れるまでに時間がかかるのは仕方ない側面もある。クルピのマネジメントは今のガンバにとっては劇薬だったということ。副作用が想像以上に大きかった。
ゴール裏の世界でも同じようなことは発生している。「もっと声を出せ!飛び跳ねろ!」「手拍子は頭の上!」と応援を強要するサポーター団体のことが嫌いな人でも、不祥事などでサポーター団体が解散した後の応援が熱量の少ないものになったこを目の当たりにすると、自由(応援)よりも過去の強要が恋しくなる。2月に訪問したバルセロナの応援は自由で驚いたが、選手もサポーターもまだそこまでのレベルに至っていないということなのかもしれない。
岡田メソッドから学ぶ
ガンバサポーターの私がこの固有名詞をあげるのは勇気がいるが、歴史をふりかえるとあの「ナチス」でさえ支持者が存在したという事実。自由を重荷と感じ、何かで自分を拘束したいと考える人もいるということ。しかも、それは決してマイノリティではない。
そうした考え方をすると岡田武史氏がFC今治で提唱する「岡田メソッド」は参考になる。「守破離」。チームとして共通認識を持つべき戦術の「型(KATA)」を設けた上で、そこからの発展として自由を求めるというアプローチ。いきなり自由ではないというのが日本人との親和性の高さを感じさせる。
クルピの中でまずは最低限の「型」をチームに浸透させるというチームマネジメントは選択肢にないのだろうか。このままでいいはずがない。クルピが何も動かないのであれば、ツネや智らに期待したい。西野朗時代のガンバもクルピに近いチームマネジメントだったという。その成功体験を持つ2人がコーチにいるのはなんたる偶然か。
あぁ、自由なんていらない。

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