満員のスタジアムが放つ熱狂は感じたいが、チケットが完売しろとまでは言っていない。この都合のいい矛盾の責任を取る形で定価の約5倍を支払って観戦した「ベトナム-マレーシア」。東南アジア王者の称号をかけて戦うサッカー国際大会・スズキカップの一戦(グループリーグ)である。
愛国心
噂通りであった。前半立ち上がりの何気ないワンプレーから後半ロスタイムのようなリアクション、気持ちを込めた“ベトナムコール”時の耳をつんざくような声量。ベトナム国旗Tシャツの異常なまでの着用率の高さからも感じる一体感がもたらす熱量はそのままこの国のポテンシャルだ。
国名がプリントされたハチマキを撒き、声をあげるサポーターはきっとベトナムという国を信じているのだろう。高い経済成長率に代表されるベトナムの勢いを象徴しているような応援。日本にもこうした時代があったのだろうか。もう自国では経験できないかもしれない未来に期待するドメスティックな雰囲気が羨ましかった。
非日常
発煙筒を焚き、車の上で国旗を振りながら愉快な曲に踊り狂う。これがベトナム人の国民性を表しているとは思わない。スタジアムが何かを開放する場所や社会の捌け口として機能しているようにも見えた。こうした光景を体験したくてベトナムまで行ったと言っても過言ではない。なぜか惹かれてしまうのだ。
私が同じことをパナソニックスタジアムで行ったら出禁だろう。禁止行動を細かく規定する理由をあげればキリがない。そうしたルールが徹底されているからこそ日本(Jリーグ)のスタジアムは安全で、女性や子供も安心して観戦ができる。分かっている。日本にとってスタジアムは非日常空間ではない。生活の延長線上にある。
しかし、外(社会)の倫理を反映させ過ぎているのではないかとも思う。批判する訳ではないが、村井チェアマンになってからその傾向は顕著に表れている。スタジアム内にいるサポーターがお互いに許容できるのであれば、多少羽目を外してもいいじゃないか。勿論、差別や暴力はダメだ。個人的には何とも思わないが、中指もダメだろう。ただ、たまには発煙筒で勝利を祝うくらいあっていい。厳しいルールで縛った結果、スタジアムが発散の場として機能しなくなると何が起きるか。その欲求は他で晴らすしかなくなるだろう。無秩序と化しているSNSでの選手に対する誹謗中傷や代表戦時における渋谷はある種の前兆のようにも思えてならない。スタジアムはどういう場所なのか考え直したくなった。
いつからサッカー観戦が行儀正しいものになったのだろう。繰り返すが、それを否定する訳ではない。ただ、サッカーの社会での存在感が増すにつれ「サッカー=良いもの」というレッテルが自らを苦しめるコンプレックスになっているような気がしている。
ベトナムサッカーが今後日本と同じような変化をしていく可能性はある。だからこそ、この日ミーディーンスタジアムで見た光景が“大切な今”であることは間違いない。

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