【宮崎崚平インタビュー】ラストチャンスを逃しても――プロサッカー選手の道を探し続けた苦悩と葛藤の日々

メディア寄稿実績

「ここで活躍して、欧州5大リーグへステップアップして、日本代表に選出されて……」

2021年1月、セルビア・スーペルリーガ1部のOFKバチュアに移籍した宮崎崚平はそんな未来を想像していた。自信があったし、それだけの努力を重ねてきた自負もあった。有名なメディアが自分の移籍を報じ、SNSを見れば自身への応援メッセージが投稿されている。プロサッカー選手として注目される喜びを噛みしめていた。

――そこから1年以上が過ぎた。2022年3月現在、宮崎はプロサッカー選手ではない。どのクラブにも所属しないフリーの立場で黙々とトレーニングを続ける日々を送っている。セルビアでの日々、コロナ禍での所属クラブ探し、そして……苦悩と葛藤の日々を振り返える。

現実と自信の狭間で。宮崎崚平、セルビアでのラストチャンス

2021年1月27日

2度の怪我。不完全燃焼のまま幕を閉じたセルビア挑戦

2021年6月末、宮崎崚平が“ラストチャンス”として挑んだセルビア・スーペルリーガでのキャリアは半年間で幕を閉じた。リーグ戦2試合出場0ゴールの助っ人外国人FWに対して、OFKバチュカが翌シーズンの契約延長を行わないことは当然の判断だった。

「代理人を通じて戦力外を伝えられる前から覚悟はしていました。契約時から『半年で結果を出せなかったら……』と言われていたので。すべては結果を出せなかった自分の責任。ただ、後悔があるとすれば、最初の怪我がなければ……」

OFKバチュカ加入後、宮崎は2度怪我をしている。特に影響が大きかったのは、ウインターブレイクからのリーグ戦再開を目前とした2月上旬、肉離れによる離脱だ。チーム加入から1カ月が過ぎ、練習の強度にも慣れ、ヴァニッチ監督からの信頼も掴みつつあるタイミングだった。

「練習の調子も良かったので(怪我は)精神的にもかなり落ち込みましたね。ただ、救いだったのは、ヴァニッチ(監督)が別メニューで筋トレをしている僕に付き合ってくれたり、日本のクラブでいう強化部長の立場の人から『チャンスはまた来るから』と声をかけてくれたこと。リーグ戦の試合数も残っていたので、まずは怪我をしっかり治そうと(気持ちを)切り替えました」

しかし、復帰後もチャンスが巡ってくることはなかった。ヴァニッチ監督は成績不振により、宮崎が復帰する前に解任。ユースチーム監督からの昇格という形で新監督に就任したイヴァンは翌シーズンを見据え、若手選手を積極的に起用した。チームに宮崎の居場所はなかった。

「練習の雰囲気で自分の立場が分かる訳ですよ。『あっ、これはもう(試合に)使われることはないな』って。イヴァン(監督)とは会話すら難しい雰囲気で。だから、代理人に『どのクラブでもいいからレンタルで(OFKバチュカから)出してくれ』とお願いして」

移籍先は見つからなかったものの、イヴァン監督は数試合の指揮で解任される。出場機会がない期間も腐らずにトレーニングを続けてきた宮崎にとっては追い風だったが、2度目の怪我(肉離れの再発)の影響もあり、十分な出場機会を得られることのないまま不完全燃焼でシーズンは終了。クラブはリーグ戦最下位で2部降格が決定した。

OFKバチュカでの練習時の様子(写真:本人提供)

欧州での所属クラブ探し。そして、浪人

OFKバチュカ退団後、2021/2022シーズンにむけた新クラブ探しは難航した。プロサッカー選手としての実績、サッカー界では決して若くない26歳という年齢、新型コロナウイルス……多くのことを望める立場や状況ではないことは分かっていた。それでも抑えきれない欧州でプレーを続けることへの渇望。そして、「自分はもっとやれるはず」というプライド。

激しいフィジカルコンタクトをいとわない練習強度、上昇志向の強いチームメイト……サッカー選手としての成長を考える上でも欧州は最高の環境だった。この先、5大リーグでプレーすることは不可能でも、まだ欧州でのキャリアを諦めたくなかった。

マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ジョージア……練習参加のオファーをくれた数クラブの中で、宮崎が惹かれた国がアルメニアだった。

「セルビア人の友人(プロサッカー選手)がアルメニアに移籍して、そこで活躍して他国にステップアップしたんですよ。彼が先駆者となって、他にも続いた選手がいたんですけど、僕もこのルートだなって。(アルメニア)1部リーグでは日本人がまだプレーしないことがないことも魅力でしたね」

マレーシアでのプレー経験もある宮崎のもとには、インドやインドネシアといったアジア圏のクラブからのオファーもあった。提示された条件は欧州各国クラブと比較しても魅力的なものだった。しかし、宮崎は欧州にこだわった。結果、その判断が裏目に出ることになる。

当初交渉を進めていたアルメニアの首都エレバンを本拠地とするサッカークラブ「FCアララト・エレバン」は、平行して交渉が進められていた別選手の獲得により破断に。同じくアルメニアリーグに所属するクラブ「ノラヴァンク」からは契約を前提とした練習オファーを受けるも、条件面で合意に至らなかった。

その後、希望する条件を下げてクラブを探すも、時すでに遅し。どのクラブも新シーズンの編成が固まり、受け入れてくれるクラブを見つけることはできなかった。宮崎は所属先がないまま欧州の新シーズンを迎えた。

「今となっては先方(ノラヴァンク)が提示する条件を飲んで契約すれば良かった……とは思います。欧州でプレーするチャンスがあった訳なので。ただ、あの時はそこで活躍して、年俸を上げてやるという考えを持てなかった。浪人が決定した時点で、欧州でプロサッカー選手を続ける道は諦めました」

浪人中もトレーニングを続けチャンスを待ち続けた(写真:本人提供)

タイムリミットは2022年春

日本に帰国後、対象をアジアまで広げても所属クラブは決まらなかった。OFKバチュカで宮崎を評価していたヴァニッチ監督の推薦もあり、同じボスニア人のミロが監督を務めるインドネシア1部「PSMマカッサル」から獲得をオファーされるが、同国の新型コロナウイルス感染拡大に伴う入国規制で査証(ピザ)を取れず断念。

2021年秋には面識のあった関係者を通じてFC岐阜の練習にも参加したが、こちらも契約には至らなかった。時間の経過に比例して落ちづける体力、試合勘。「自分はもうプロサッカー選手ではいられないかもしれない」という焦り。

「日本に戻ってきた後も社会人チームの練習の参加させてもらって、トレーニングは続けていたんですが、やっぱり強度がプロと違うので。OFKバチュカを退団してから結構な時間が経ちましたし、コンディションが低下しているのは否定できません。FC岐阜の練習に参加した時も『ボールが足についていなかったね』と評価されました」

気が付けば、所属クラブが見つからないまま半年以上が過ぎていた。「もうタイミング的にサッカーを辞めなきゃいけないのかな」という考えが頭をよぎる時もある。状況的に“終わった選手”と見られていることも自覚している。そんな状況下でもトレーニングを続けているのは、プロサッカー選手として生きる道を諦めきれないから。代理人からは春に移籍市場がオープンになる東南アジアのリーグへ移籍できる可能性があると言われている。

「チャンスが少しでもあるんだったら、それを信じて数か月待つことにしました。次は月10万円の給料でもやりますよ。そこから実力を示して、ステップアップすればいいので。だけど、今年の春で所属クラブを決められなかった時は、きっぱりプロを諦めて、違う道を探すのか、アマチュアでプレーは続けるのかを考えようと思います」

新型コロナウイルスの影響は依然として大きく、海外移籍のハードルは高い。獲得オファー後に破断になったインドネシア・PSMマカッサルのようなケースもあり、過度な期待はできないことは宮崎も理解している。それでも……一縷の望みにかけて今日もトレーニングを続けている。

 

Ryohei Miyazaki
宮崎崚平

1995年静岡生まれ。ポジションはFW。鹿島学園高等学校卒業後、つくばFCや第一期メンバーとしていわきFCでプレー。2018年からは拠点を海外に移し、2018年にサンディエゴゼストFC(アメリカ)、2020年はメラワティFC(マレーシア)に在籍。2021年セルビア・スーペルリーガのOFKバチュカに移籍するも怪我の影響もあり、半年間で契約満了。現在はフリーで所属クラブを探している。

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ABOUTこの記事をかいた人

1984年生まれ、大阪府出身。関西学院大学卒業後、スカパーJSAT株式会社入社。コンテンツプロモーションやJリーグオンデマンドアプリの開発・運用等を担当。2020年に筑波大学大学院でスポーツ社会学領域の修士号を取得。現在はスポーツ系出版社のライター&WEBサイト運営。ビジネス関連のテーマを中心に取材・執筆。F1と競馬も好き