キックオフ時間まで7時間を切った正午過ぎ。アイツは新聞紙が大量に詰められたビニール袋を両手に持って現れた。
「皆もやるでしょ?」
万博記念競技場の入場口から少し離れた、いつもの日陰。休憩しながら開門時間を待っていた我々に、手際良く新聞紙とハサミが配布される。
この日は大阪ダービーで、選手入場時にサポーターが紙吹雪を撒く演出が予定されていた。新聞紙はその準備のために持参してきたものだ。図工の先生さながら、紙が綺麗に空中を舞うためのサイズや形を指導しながら新聞紙を切るアイツの姿は、15年以上が過ぎた今もよく覚えている。
紙吹雪演出が行われた翌年にはこんなこともあった。
2007年ナビスコカップ決勝の開門を待つ旧国立競技場の場外コンコース。「よっこいしょ」の一言と共にアイツがバッグから取り出したのは、やはりビニール袋。中には小さな黄色の布らしきものが入っているのが見えた。大阪からの夜行バス移動で疲労困憊な私を横目に「ちょっと渡してくる」と、アイツはビニール袋を手に駆け足で待機列を離れていった。
戻ってきたアイツは「リボンを渡してきた」と満足気だ。曰く、ユニホームの腕部分に黄色のリボンを付けることをシンボルとした『応援マナー向上』のプロジェクトが行われており、主催者に自作したリボンを寄付してきたらしい。
当時の私はネットをあまり見ていなかったし、SNSもない時代。アイツを通じて知ったサポーターカルチャーは多かった。サッカーは好きだけど、ゴール裏(サポーター)に対する心理的ハードルを感じていて、そこまで熱心に応援していなかった私を“沼”に引きずり込んだのは間違いなくアイツだった。
「顔(が理由)じゃないよ」と予防線を張って、背番号2(中澤聡太選手)のユニホームを毎年買っていたアイツ。
「こんな暗い曲ばっかり聴いてるの?けど、寝るのには丁度いいわ」と、アウェイ遠征帰りの夜行バスの中で私のイヤホンを奪い取った後、即寝落ちするアイツ。
誰よりもガンバ大阪の応援を楽しんでいたアイツ。今も元気にしているだろうか。
仲間からの批判
毎年、大阪ダービー前にアイツのことを思い出すのは、アイツがこの試合に特別な思い入れがあったからだ。試合が近づくと、ここでは書けないようなゲン担ぎの食生活を始め出し、ここでは書けないような横断幕の写真がスマホの待ち受け画面になり、ここでは書けないようなチャントをスタジアムで歌った。
私も、そうしたサポータ一人ひとりの熱量がスタジアムに充満し、その特別な雰囲気によって相手を圧倒する大阪ダービーという試合の虜になっていった。
しかし、そんな大阪ダービーがアイツをスタジアムから離れさせることになる――。
誰かを責めたい訳ではないので、出来事の詳細は省略する。書けるのは、今では比較的当たり前のサポーター活動として認められているアイツのある行動が、大阪ダービーが行われた日、一部のサポーターからネット上で批判されたということ。当時は今ほどゴール裏での多様性が認められる雰囲気ではなく、「歌う」「手を叩く」「飛び跳ねる」以外の行動はあまり推奨されていなかったと記憶している。
そして、アイツが最も傷ついたのは、自身への批判の一部が、内容的におそらく仲間からのものだったことだ。近年の「炎上」や「誹謗中傷」ほど酷いものではなかったが、意外に打たれ弱かったアイツがガンバから距離を置く理由としては十分だった。
「じゃあ、また来週。SB席で」
試合観戦後、アイツとよく歩いた千里中央から箕面船場に向かう新御堂筋沿いの坂道。今でもここに来ると自問してしまう。
あの時、アイツに何を伝えれば良かったのだろうか……と。
「人間関係なんていつか絶対終わるもんやから」と開き直りにも近い私の価値観を押し付けたり、「いや、それでは根本解決にならないよ」と必要以上に論理的に話したり……今考えれば「俺はお前の味方だから」の一言で良かったのかもしれない。アイツの言葉を「うんうん」と聞いてやるだけでも良かったかもしれない。ちゃんとアイツと向き合えなかった後悔が今でも甦る。
大阪ダービーの件以降、アイツはゴール裏ではなくSB席で観戦するようになった。理由は色々あったと思う。特に何かを聞くこともなく、私もそれに付き合ったし、スタジアムに来なくなるという最悪の事態にならなくて良かったと、少しの安堵感もあった。
ただ、この頃からアイツが口にする話題は、ガンバ以外の趣味であるアイドルのことが増えていった。「ライブで〇〇君が〇〇した」「今度、〇〇が〇〇する」……正直、興味がなかったので会話の詳しい中身は覚えていない。覚えているのは、アイドルの話をする時のアイツの表情が、ガンバの話をする時とは少し違って見えたことだけ。
どこか居心地が悪そうに過ごしていたガンバサポーター飲み会の帰り道、何を話せばいいのか迷いながら時間だけが過ぎていた。そんな時、アイツのスマホにアイドル仲間からであろう電話が鳴る。
「あっ、電話だ。じゃあ、また来週。SB席で」
繰り返す、タラレバ
あれから十数年が過ぎた。
この間、アイツが万博記念競技場や、パナソニックスタジアムに現れることは一度もなかった。一緒に新聞紙を切ったサポーター仲間も、今ではスタジアムに来なくなった人が多い。ガンバから離れた理由は人それぞれだが、少しずつ疎遠になって、皆で集まることもなくなった。アイツとはしばらくLINEでのやり取りはあったが、直接の会話はSB席での再会を約束したあの夜が最後になった。
スタジアムに来なくなってから、何の力にもなれなかったことを「ごめん」と謝ったことがある。アイツは「謝る必要はない」と言った。だけど、続けて発した「私が楽しいと思う道を選んでるだけだから」という言葉の裏にある辛さ、悲しさ、寂しさをもっと想像すべきだった。
頭の中でタラレバを繰り返すことしか出来なかった自分が今でも情けない。
「アイツが応援している場所が少し違っていれば……」
「違う言葉をかけてやれれば……」
「あの試合が大阪ダービーじゃなかったら……」
少し寂しいけれど、アイツが今もアイドルの応援を楽しんでいたらいいなと思う。下戸な私に気を遣ってセーブしていたビールを大量に飲める仲間に囲まれていたらいい。アウェイ遠征ついでに行きたがっていた「ひたち海浜公園」や「金沢21世紀美術館」での観光を満喫していたらいい。
――まだ遠征先でご当地ぬいぐるみ買ってますか?
――まだ画素数のショボいスマホで夜景の写真集めていますか?
――まだホテルのベッドでトランポリンやってますか?
――まだカレーやネギトロ丼を最初にグチャグチャにしてから食べてますか?
――年間読書100冊の目標は達成できましたか?
――パナスタにはもうSB席がないことを知ってますか?
アイツに聞きたいこと、伝えたいことは山ほどある。何度思い返しても、取り戻せない時間。届かない言葉。いつまでも楽しい時間が続くと思っていた驕り。アイツは、サポーターとして過ごした時間をどんな思い出として記憶しているのだろう。今の私に出来るのは、アイツが自分らしく今の生活を楽しんでいることを願うことだけだ。
――今も元気にしてますか?
大阪ダービーが近づくと思い出す。感謝と、後悔と――。
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